投資に関する教育の是非
つい最近、『為替のしくみが基礎からわかる本』を上梓した。(総合法令出版刊)
主として中高生および主婦層を対象に、質問・応答形式を多用した、基本中の基本の入門書である。
余りに簡単過ぎたかなと危惧していたが、有難いことに、駅ナカの書店などでは好評のようである。
投資に関する教育が始まって10年が経過した。
小中学生に投資に対する知識を植え付ける必要があるかどうかなど、当初は疑問視されることも
多かった。
そして最近では、小学校のカリキュラムに英語を取り入れるか否かでも論議を呼んでいる。
こうした教育論争がある一方、ここ10年における諸環境で大きく変化したのは、コンピュータや
携帯電話を中心とするIT機器の(予想以上の)進歩であった。
今や携帯電話でTV画面が見られるのは勿論、世界中のあるとあらゆる情報が得られる時代となり、
携帯電話で為替・株式取引ができる世界が出来上がっている。
また折からの少子化で、日本の小中学校では「生徒各自にPC1台」の世界となっている。
PCを通して世界の情報を得るのに、世界の共通語である英語の読解力があった方がいいのに
決まっている。
(教育の)押し込み主義だとの批判の声もある。だがそうした異議を唱えるのは、自分の幼少時代に
勉強をしなかった人間が多いこともまた紛れもない事実である。
そして問題なのは、21世紀に入って、1980年前半から始まった“ゆとり教育”の弊害が顕著になって
いる点である。
“(原則的に)競争を排除する”ゆとり教育は、運動会での徒競争での順番の排除を始めとして、
“騎馬戦”や“棒倒し”をも排除した。
平等だ、危険だとの考えが先行した結果、世界のトップを走っていた日本全体の競争力が一気に
落ち込んでいる。
世界を巡る風土・環境が大きく変貌していく一方で、古来からの競争の論理を排除した結果、
自分本位の世界に閉じこもる若者が多くなり、自分の意志に反するものは排除する考え方が先行、
無為な殺人事件も頻発している。
サブプライム問題を発端に100年に1回と言われる恐慌が起き、市場至上主義、
あるいは市場原理主義がやり玉に上がっている。
確かにIT技術の驚異的な進歩から、疑似の(架空の)世界と、実際のマネーが動く現実の市場の
判別ができなくなり、悲惨な結果を導き出している。
そういう時期だからこそ、市場の基本的な知識を習得し、本当の意味で市場を理解し、ことの善悪を
判断する力を身につける必要があるのではないのだろうか。
現在の経済学の欠点は、所与のもの(=理論的に不変なもの)を勝手に設定した上、理論の展開を
する点にある。その延長線上に市場至上主義がある。
しかし、その不変であるべきものがクラッシュすれば、全体がクラッシュする。
「一般の世の中(金融市場)の現実の動きと、理論との乖離」は、現在の大学教育では教えられて
いない。教えるべき年代が実際の経験をしておらず、机上の論理(理想論)が先行するからである。
こうした(経済学上の)大きな欠陥が100年に1回の大恐慌を引き起こしたとも言える。
“騎馬戦”や“棒倒し”での“(本当の)痛み”を知り、徒競争で一番になるための訓練を経て勝利の
快感を得ることで人間は成長すると思う。
“何が危険なのか”あるいは“実戦で勝つためには何をすべきか”を実感する必要がある。
日本のバブル時代が“空白の10年”という表現をされている。
実際には、1980年から20年超の空白と思う。
「21世紀を生きる若者は(知識として、法に触れない範囲で)何でも経験する」必要があると思う。
投資の教育の是非を論じている場合ではない。
若者は脳細胞の余裕タップリ。吸収が早い。
若者が “(知識の)引き出し”をできるだけたくさん持てるよう機会を与えてあげるべきだと切実に思う。
そこには(勉強もしていないorしてこなかった)大人の間違った常識論は必要ではない。
次代を担う若者を(本当の意味で)理解し、サポートするのが我々の使命と思う。
