ソバかラーメンか
日本人の性格を特徴付けるためのサンプルとして、
「ソバ的ベクトル」と「ラーメン的ベクトル」という二分法がある。
ベクトルの指し示す方向は正反対ではあるが、双方とも典型的な日本人の性格であり、
日本人の精神を形成するための二つの側面を示している。
まずはソバ的ベクトル。
これは一旦ルールと定数が決まると、それから逸脱することなく、
「ルールを厳密に守りつつ、定数の内部での工夫を目指す」という方向に動く。
ソバの外形的要素は、そば、そばつゆ、薬味(刻みネギ、ワサビなど)が基本で、
天ぷら、トロロなどの若干のバリエーション的追加はあっても、本質的には不動。
例えば、そばつゆをトリガラで採るとか、そば粉の代わりに別の植物粉を使えば、
それはソバでなくなってしまう。
つまり各要素の選択において制限的であり、この意味でソバは均整と禁欲を旨とする
(純日本的な)古典的な食物である。
工夫されるのは「決められた要素の内部での微妙なバリエーション」であり、そのサジ加減が
良し悪し(うまい・まずい)を決定する。
日本的な「通」とか「粋」という概念は、ソバのような制限的で禁欲的な「制度」の「内側」で生まれる。
これに対して、ラーメン的ベクトルには、最低限のゆるいルールと定数があるだけで、後は何でもあり
の多形的な方向に動く。
スープは鶏ガラから始まって、豚骨、煮干し、鰹節と制限はない。
メンも太い、細い、固い、柔らかいといった区別だけでなく、ベースになる粉にも制限はない。
具に至っては「ないものはない」といった情況になる。
結局ラーメンは、外延的にも内包的にも無限の変容と進化を続ける食べ物で、極端に言えば、
「これはラーメンではない」という言い方はあり得ない。
「これもまたラメーンです」と言われれば、「ハイ、そうですか」と言うしかない。
ラーメンの起源はとりあえず中国とはなっているものの、元々混合的な食べ物であり、
日本において縦横無尽に進化してしまった結果、起源が見えなくなっている。
つまり現在のラーメンは、逸脱と変容を旨とする多国籍食べ物になってしまっている。
従って評価の基軸は、
「外延をどこまで取り込んで新基軸を打ち出し、それを既存の要素にどう調和させたか」にある。
振り返って、今回の100年に1回の大恐慌は、
(逸脱と変容を旨とする)金融工学をベースに「規制はすべからく緩和するのが正しい」とした上、
「グローバル(地球的規模の)」という言い方を「米国型を踏襲すること」と思い込んできたことに
起因する。
そして世界中が「米国も失敗するかもしれない」という懸念を微塵も持たないまま、
(利益を最優先する)米国型に追随することで大きな損失を蒙った。
そして日本も、時代の最前線を行く(ように見えた)米国型に盲信的に追随する中で、
日本社会独特の美風だった習慣・手法を徐々に消し去っていっている。
かくして、20世紀の最終勝者になった米国型手法(ラーメン型手法)に追随してはきたが、
大きな欠点があると解った現在、
「本来の日本的文化に立脚した考え方=ソバ型手法」に帰り、
「将来のための基礎」を構築していく時期であろう。
