ウィンドウズ・ビスタの時代
先週、執筆用のPCがクラッシュした。
これまで、頑固なまでに東芝ダイナブック・シリーズを使用してきた。
今回崩壊したのは、トータルで10台目のヤツである。
もはや市販されていない旧式で、大事に大事に使ってきた(つもりである)。
現在のように余計なものが一切ついてない、至ってシンプルなやつである。
いってみれば、PCとはいいつつ、ワードしか使わない、アナログの最たるものだった。
物書きの端くれの自分には、ブラインドタッチで、思いついたらスッと文字にしてくれた。
イラついて、思い切り、それこそ指が痛くなるように叩きこんでも、ビクともしなかった…
だが全く突然、ピタッと、全く動かなくなった。
“もう自分の時代は終わりで~す”と言おうとするように…
スタイルは良くはないけど、長年連れ添ったオンナに、スッと去られたような気がした。
こんなに喪失感を味わおうとは思いもしなかった。
仕様がないからビッグカメラに行って新種のダイナブックを購入した。
最新のビスタ搭載で、デザインなど、見た目は最高である。
しかし、あまりに多機能で、当然ながら戸惑っている。
何でこんなに複雑怪奇な機能が必要なんだ…
今回のブログを書くにも、騙し騙し使用している。
タッチが微妙に違う。イライラする…
今年の4月以降、矢継ぎ早に法事を執り行った。
三番目の弟の一回忌(4月)、親父の27回忌(5月)、二番目の弟の妻君の三回忌(6月)...
何か名実共に、昭和という時代が終わったような気がしている。
そして気がつけば、いつも間にか、携帯電話万能の時代になっている。
自分だって携帯を持っている。
どこにいても、いつでもかけられる。
誰かと待ち合わせしたとする。
遅れそうになったら、携帯にTELする。それでエブリシングOK!である。
待ち人が来るかどうかで、不安で待つ必要はなくなった。
ただ同時に、待ち人を見つけた瞬間の、安堵にも似た大きな喜びもなくなった。
期待も不安も、そして喜びもみんな半減してしまったのである。
親父も、三番目の弟も、二番目の弟の妻君も、自分の周りの人間が皆元気だった昭和と、
現在の平成の違いは一体何だろう?
まことにノルタルジックで、ありきたりの言い方ながら、それは「家族」であり、そして「家族の団欒」
ではなかったのかと思う。
昭和30年代半ば以降の高度成長の波が、昭和という時代の、多少は不便だけど懐かしい雰囲気を
変えていった。
子供たちは個室を欲しがり、各自が携帯やTVなどの専用通信機器を持つようになり、夜の茶の間に
つどう家族像は消えた。
そして人は家で生まれて家で死ぬのではなく、病院で生まれ病院で死ぬようになった。
核家族というシステムが家族から老人をはじき出して死を遠ざけ、ついでに生をも遠ざけた。
「新しければ何でもいい」「便利なら何でもいい」という新時代の波に随いていけない自分がいる。
弟から”時代遅れ”と笑われても、仕方なくPCメールはやっても、携帯メールは頑として拒否している
自分がいる。
今回の(執筆用)PCのクラッシュは、「アナログな自分も多少はデジタル人間になれ」とのサインの
ようにも思える。
(言い訳に近い繰り言だけど)しかし、これ以上の便利さは、果たして必要なのだろうか?
